ヘルマン・ゲーリング(最終階級:国家元帥)
Hermann Goering(1893-1946)
-国家元帥まで上り詰めた戦争政治屋-
1893年にバイエルンの裕福な家庭に生まれる。1912年に歩兵連隊に少尉に任官。その後、航空隊へ移り、第一次世界大戦中、リヒトホーフェン戦闘機隊
の一員となり、22機撃墜の戦績を持つエースパイロットとして有名となった。隊長のリヒトホーフェン男爵の戦死後、第1リヒトホーフェン航空戦闘航空団指
令に抜擢された。
敗戦後、ヴェルサイユ条約により空軍が解体されて職を失ったことと、自国の悲惨な状況と左翼勢力の台頭に嫌気がさし、曲芸飛行士としてデンマークやス
ウェーデンを巡業した。1922年にドイツに帰国後、ミュンヘン大学で歴史と政治を学んだ。この頃、ヒトラーと出会い、ナチスの思想に共鳴し、ナチス党に
入党。まもなく、その名声と指導力により突撃隊の司令官となる。入党後の彼は軍人としての仕事よりも、政治活動に向けられた。1923年のミュンヘン一揆
では太ももに重傷を受け、海外に亡命し治療に専念するが、治療のモルヒネから麻薬中毒者となり、今後の彼の一生に大きな影を落とすようになった。1926
年の大赦により帰国し、ヒトラーの合法的な政権獲得に尽力する。1933年に成立したヒトラー内閣でプロイセン州内務大臣として入閣し、その警察力を駆使
し反対者を検挙・弾圧し、ゲシュタポを組織する一方、1935年に空軍大臣に就任し、ドイツ新空軍の設立に多大なる影響力を持った。
39年、ヒトラーはゲーリングを後継者として指名し、40年には彼のために国家元帥の名称を創設した。しかし、彼の名声はこの後急速に失墜することに
なった。40年の空軍力でイギリスを屈服させることに失敗したことを皮切りに、43年のスターリングラードで包囲されたドイツ軍への物資空輸作戦の失敗に
よって、ゲーリングの名声も権力の失墜も決定的となった。44年までにはナチス首脳部の実質的な決定機能から退き、絵画コレクションに傾倒するとともに、
薬物への依存が高まり、常軌を逸していた。45年には再び野心を露わにし、ヒトラーの後継者としての立場を確かめる電報をヒトラーに送った。これが、マル
ティン・ボルマンによって裏切り行為としてヒトラーに伝えられ、激怒したヒトラーはゲーリングを逮捕、すべての地位を剥奪した。
敗戦後、ゲーリングはアメリカ軍のもとに国家元帥として出頭し、正当な取り扱いを要求するが、一捕虜として逮捕された。「ゲシュタポと強制収容所設立の
責任者」の罪でニュールンベルク軍事裁判に掛けられ、ここで彼は往年の威厳を取り戻し、被告人たちのリーダーとなり、すべての罪科を認め、絞首刑の宣告を
受けた。しかし、処刑の前日の1946年10月15日、隠し持っていた青酸カプセルを飲み、虚栄に満ちた彼の生涯に自ら幕を閉じた。彼の死体は廃棄処分さ
れ、その灰は川に投げ捨てられた。
彼は、恰幅がよく、一見お人好しそうに見えたが、虚栄心が強く冷酷な性格で目的のためには手段を選ばなかった。実際、フランス降伏後、趣味の絵画収集コ
レクションを増やすため、膨大な絵画を美術館や個人から略奪したという。他方、軍事的失敗から権威が失墜した頃から薬物に手を出し、現実逃避を行っていた
という小心的な一面もあった。