2015年7月6日月曜日

真木和泉と禁門の変(蛤御門の変)

文化10年(1813)3月7日、筑後国久留米城下瀬下町にある水天宮神官真木左門旋臣(としおみ)の家では待望の男の子が呱々の声をあげた。幕末維新の志士たちの多くがまだこの世に生まれ出ていなかった。
真 木和泉を中心に数えれば、横井小楠4歳、佐久間象山が2歳年上であることを除けば、以下の人はすべて年下で、西郷隆盛14年、平野国臣15年、吉田松陰・ 大久保利通は17年、木戸孝允23年、高杉晋作にいたっては26年も年下である。真木和泉は 両親から五尺八寸の身長、しばしば力士に間違われたところの肥満した体躯、角ばった赤銅色の顔、広く秀でたひたい、跳ね上がった薄い眉、威力のある目、大 きな耳と口、太く短い首、そしてやや猫背の容姿を受け継ぎ、加えるに討幕唱始者として久留米一藩を驚倒させ、天下の耳目を聳動させたあの激しい気性を受け 継いだのである。ところが幼年時代の和泉は、長男の故か起居動作に老成人の風あり、同年輩の子供らと遊び戯れることがなく、豪放闊達とうよりむしろ小心 翼々たるものがあったといわれる。読書にはよくはげみ、母柳子の言うところでは読み書きせよと命じられることなく、むしろ勉学に過ぎて病気にかかるのを心 配したほどであったとされている。このころから楠正成の伝記に親しんでいたという。長じて楠公崇拝は勤皇思想と結びつき、その威力は周りの人々を巻き込ん でいくことになる。

久留米の水天宮内、真木和泉像  

真木和泉の禁門の変の前の活動として、長州藩を足がかりに攘夷親征、大和行幸計画を名目とする討幕を目指すが、文久3年8月18日、会津藩と薩摩が 結託して長州藩を追放した政変で挫折(八月十八日政変)、長州藩の御所警備は解かれて、薩摩・会津がこれに代わり、三条実美ら七卿は長州に落ちた。和泉も 七卿に従い、日夜その対策に参加した。和泉はしばしば建言して武力をもって上京し、君側の奸を除き、8月18日以前に返すべきことを力説した。それを著し たのが10月に著した「出師三策」で軍事力による朝廷奪回を主張している。ついに、長州藩主は国老福原越後、国司信濃をして兵を率いて上京させ、哀訴する ことにした。和泉は浜忠太夫または甲斐真翁と変名し、各藩浪士で組織した清側義軍300名を久坂玄瑞とともに総管して、ともに上京した。元治元年 (1864)6月24日、清側義軍は山崎に到着し、天王山に陣営を構え、久坂玄瑞・中村円太などと連署して七卿復帰・長州公の入朝・攘夷の発令の哀願書を 閣老稲葉美濃守に託したが上に通じなかった。元治元年7月の禁門の変では久坂玄瑞、来島又兵衛ら とともに浪士隊清側義軍の総管として長州軍に参加、7月19日、堺町御門を目指して進軍したが、福井藩兵などに阻まれて敗北。天王山に退却、長州へ敗走す ることを拒否して和泉は21日、天王山において、挙兵の責を痛感して自刃した。このとき、弟直人・息子菊四郎はともに死を願ったが、和泉はこれを止め、後 日の再挙に託して、ここを去らせた。そして同志17人とともに、「大山の峰の岩根に埋めにけりわが年月の大和魂」の辞世を遺し、割腹した。時に52歳で あった。和泉以下17人の屍は宝寺塔前に埋められたが、その墓はいつしか「残念さん」と言われて参詣するものが後を絶たなくなった。幕府はこれを忌んで、 衆人の登山を禁じ、その屍を宝寺山下の竹林に転埋した。明治元年9月、和泉の嗣子の佐忠が久留米藩の命により、17士の遺骨を竹林の中から収集して、割腹 の地に改葬した。

【真木和泉の言葉】
「士の重んずることは節義なり。節義はたとへていはば人の体に骨ある如 し。骨なければ首も正しく上に在ること得ず。手も物を取ることを得ず。足も立 つことを得ず。されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば不骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり」

水天宮内、真木神社
東郷平八郎

余談ですが
大日本帝国海軍、元帥海軍大将
東郷平八郎が書いたそうです。 

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